
バフェットの歴史
1930年 - ウォーレン・バフェット誕生
ウォーレン・エドワード・バフェットは1930年8月30日、アメリカ・ネブラスカ州オマハに生まれました。父ハワード・バフェットは株式仲買人であり、後に連邦下院議員も務めた人物で、保守的な価値観と厳格な倫理観を持っていました。母レイラ・バフェットは家庭的で献身的な存在で、家族の絆を大切にしていました。 バフェット家は知的で堅実な雰囲気に包まれており、子どもたちには勤勉さと誠実さが求められました。ウォーレンは幼い頃から数字に強く、6歳でコーラの転売を始め、11歳で初めて株を購入するなど、早熟な商才を見せました。 周囲の大人たちが新聞を読む様子や市場の話題に関心を寄せる環境で育ったことが、彼の投資家としての素養を早くから育てたとも言えます。
“I always knew I was going to be rich. I don’t think I ever doubted it for a minute.”
1942年 - 初めての株式購入
ウォーレン・バフェットが初めて株を購入したのは、わずか11歳のときのことでした。第二次世界大戦中の1942年、彼は父の証券会社で得た知識を元に、Cities Service Preferred(シティーズ・サービス・プリファード)という石油会社の株を3株購入しました。1株あたり38ドル、合計114ドルという当時の彼にとっては大きな買い物でした。 ところが、株価はすぐに27ドルまで下落。しかしバフェットはそれを手放さず、やがて株価は40ドルまで回復。彼はその時点で売却し、わずかな利益を得ました。ところがその後、株価は60ドル以上まで上昇したため、「もう少し待っていればもっと儲かったのに」と悔やむことに。 この経験から彼は、“忍耐”の重要性と、“感情に左右されない投資判断”の大切さを学びました。彼の投資哲学の原点ともいえる出来事です。
“The best thing I ever did was to buy my first stock at age 11.”
1950年 - コロンビア大学でベンジャミン・グレアムに師事
ウォーレン・バフェットは1949年にネブラスカ大学を卒業後、ハーバード・ビジネススクールへの進学を志望していましたが、不合格となってしまいます。しかし、彼は当時すでに影響を受けていた書籍『賢明なる投資家(The Intelligent Investor)』の著者であるベンジャミン・グレアムが教鞭を執っていることを知り、コロンビア大学ビジネススクールへ進学を決意。 1950年、バフェットはグレアムに直接学ぶことに成功し、グレアム流の“安全域(margin of safety)”に基づいた価値投資の考え方を徹底的に身につけました。クラスでの質問攻めや情熱的な姿勢により、グレアムにも強い印象を与えたといわれています。 この期間に築かれた理論と思想は、バフェットの投資人生の中核を成すものであり、彼のスタイルを決定づけたといっても過言ではありません。
“Ben was this incredible teacher, and I was like a sponge. Whatever he said, I soaked it up.”
1954年 - グレアム=ニューマン社に入社
1954年、ウォーレン・バフェットは大学時代に師事したベンジャミン・グレアムの投資会社「グレアム=ニューマン社(Graham-Newman Corp.)」にアナリストとして入社しました。当時の彼はまだ24歳で、年間12,000ドルの給与が支払われていました。 この会社では、“ネットネット株”と呼ばれる純資産よりも大幅に割安な企業を徹底的に調査・投資する手法がとられており、バフェットはまさに実地でグレアム流の価値投資を学び、実践する機会を得ました。 しかし、バフェットは次第に「グレアムの方法は論理的だが、企業の定性的な面を過小評価している」と感じるようになります。たとえば、ブランド力や経営陣の手腕といった“数字には表れにくい強さ”を重視する考えが芽生え始めていたのです。 その後グレアムが引退を表明したのを機に、1956年に自らの投資運用会社「バフェット・パートナーシップ」を設立し、バフェット独自の投資スタイルを模索する道へと進みました。
“I am 85% Benjamin Graham and 15% Philip Fisher.”
1956年 - バフェット・パートナーシップ設立
1956年、ウォーレン・バフェットはわずか26歳にして、自身の投資運用会社「バフェット・パートナーシップ(Buffett Partnership Ltd.)」を設立しました。この資金は、家族や友人、知人から集めたわずか105,000ドルに過ぎませんでしたが、そのうちバフェット自身は100ドルしか出資していなかったという逸話があります。 このパートナーシップは、複数の投資信託のような構成になっており、バフェットは投資先の選定や運用を一手に担いました。彼はベンジャミン・グレアムの「価値投資」理論に基づき、割安な株を徹底的に分析して購入。一般的な投資家が見過ごすような地味な企業にも果敢に投資しました。 初期の運用は非常に成功し、パートナーたちはウォール街の平均を大きく上回るリターンを得ました。バフェット自身も複利の力を信じ、短期の騒音に流されない長期投資を実践。ここから彼の伝説的なキャリアが本格的に始まったのです。
“The key to investing is not assessing how much an industry is going to affect society, or how much it will grow, but rather determining the competitive advantage of any given company and, above all, the durability of that advantage.”
1965年 - バークシャー・ハサウェイを買収
1965年、ウォーレン・バフェットは、後に自身の投資活動の中核となる企業、バークシャー・ハサウェイの経営権を取得しました。当時のバークシャーは、ニューイングランドにある老朽化した繊維工場を運営する企業であり、業績も低迷していたいわば“落ち目”の会社でした。 そもそもバフェットは、この会社の株を純資産価値(PBR)より安く取引されていたために、典型的な「バリュー株」として買い集めていました。ところが、経営陣との買い取り交渉の中で、提示された価格が当初の約束よりも低かったことに強い不信感を抱き、感情的な理由も手伝って最終的に経営権そのものを握るという決断を下しました。 買収後、バフェットは繊維業が構造的に厳しいと判断し、徐々に保険事業や金融投資に舵を切っていきます。特に1967年に買収したナショナル・インデムニティ社(保険会社)は、将来の巨大な資金源=“フロート”をもたらし、以降のバークシャーの事業拡大と投資活動の土台となりました。こうしてバークシャー・ハサウェイは、バフェットの投資思想と共に歩むコングロマリット企業へと変貌を遂げたのです。
“If you get into a lousy business, get out of it.”
1973年 - ワシントン・ポストへの投資
1973年、ウォーレン・バフェットは米国を代表する新聞社「ワシントン・ポスト(The Washington Post)」の株式を約1,100万ドル分取得し、全体の約10%を保有する筆頭株主となりました。この投資は、当時の株価が企業の内在価値(intrinsic value)と比べて著しく低いと判断した“割安投資”でした。 当時のワシントン・ポストは、ベトナム戦争やウォーターゲート事件など政治的に敏感な報道を行っており、市場からは不安視されて株価が低迷していました。バフェットはそれでも、企業のブランド力、発行部数、収益力などを冷静に評価し、“経済的な堀(moat)”を持つ優良企業であると確信して投資しました。 また、同社の発行人キャサリン・グラハムとは強い信頼関係を築き、彼女の経営判断に助言を与える存在にもなりました。この関係は後年、バフェットが企業経営に影響を与える“理性的な支援者”として尊敬されるきっかけともなります。 この投資は長期にわたってバークシャーに莫大なリターンをもたらし、バフェットの“逆張り精神”と“経営を見る目”を世に知らしめた象徴的な成功事例となりました。
“You want to be greedy when others are fearful. You want to be fearful when others are greedy.”
1988年 - コカ・コーラ株の取得開始
1988年、ウォーレン・バフェットは米コカ・コーラ社の株式を約10億ドル分取得し、同社の筆頭株主の一人となりました。これは、バフェットが長年培ってきた『ブランド価値』『消費者の習慣』『永続的な競争優位性(moat)』に着目した代表的な投資の一つであり、彼の投資哲学の転換点とも言える出来事です。 この頃、コカ・コーラの株価は1987年のブラックマンデー(株式市場の大暴落)の影響で一時的に下落しており、バフェットはまさに『他人が恐れているときに貪欲になる』逆張りの姿勢で買いに動きました。 バフェット自身、日常的にチェリー・コークを愛飲しており、消費者目線でコカ・コーラのブランド力を実感していました。彼は企業のビジネスモデル、収益性、国際展開力を高く評価し、『この会社は100年後も存在している』と信じて投資したのです。 その後、コカ・コーラ株はバークシャーのポートフォリオの中核を成す存在となり、巨額の配当と株価上昇をもたらしました。単なる“数字”ではなく、“人々の習慣と心に根ざした価値”に賭けたこの投資は、バフェットの“直感と論理”の融合を象徴する成功事例となっています。
“If you don't feel comfortable owning something for 10 years, then don't own it for 10 minutes.”
1999年 - ITバブルを回避
1990年代後半、米国株式市場はインターネット関連企業の急成長により空前のブームを迎え、多くの投資家がテクノロジー株に熱狂していました。いわゆる『ドットコム・バブル』と呼ばれるこの時期、ナスダック指数は急騰を続け、株価が実体経済を大きく乖離して上昇していきました。 しかしウォーレン・バフェットは、当時の流行に乗らず一貫してテクノロジー株への投資を避け続けました。その理由は明快で、『自分が理解できないビジネスには投資しない』という哲学に基づいていたからです。バフェットはIT企業の多くが利益を出しておらず、ビジネスモデルが確立していないことに強い警戒感を抱いていました。 当時、バフェットは一部のメディアや若手投資家から『過去の人』『時代遅れ』と揶揄されましたが、2000年のITバブル崩壊により多くの企業が消滅し、株価が暴落したことで、バフェットの冷静さと規律ある投資姿勢が見直されました。 このエピソードは、『他人が熱狂しているときほど、自分の投資原則を見失ってはならない』という教訓を体現する出来事として、今も語り継がれています。
“The fact that people will be full of greed, fear, or folly is predictable. The sequence is not predictable.”
2006年 - 資産の大半を慈善活動に寄付すると発表
2006年、ウォーレン・バフェットは、自身の莫大な資産の99%以上を慈善活動に寄付すると発表し、世界に衝撃を与えました。その中心となったのは、ビル・ゲイツとメリンダ・ゲイツが創設した「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」であり、バフェットは5回に分けてバークシャー株を同財団に寄付することを明言しました。 バフェットは「富を家族に残すことよりも、社会に役立てるべきだ」という価値観を持ち、遺産の大半を子どもたちに残さないことも明言していました。子どもたちには十分な教育と機会を与えるが、“富”そのものを相続させることが彼らの幸福とは限らないと考えていたのです。 さらに2010年にはビル・ゲイツと共に「ギビング・プレッジ(The Giving Pledge)」を設立。これは世界中の超富裕層に向けて、自身の財産の半分以上を生前または死後に寄付することを誓約するムーブメントであり、社会的な影響力は計り知れません。 この発表は、バフェットが単なる投資家ではなく、人類全体の未来を真剣に考える“資本主義と倫理の架け橋”であることを強く印象づける出来事となりました。
“If you're in the luckiest 1% of humanity, you owe it to the rest of humanity to think about the other 99%.”
2008年 - リーマン・ショック後にGSやBACへ投資
2008年、リーマン・ブラザーズの破綻に端を発した世界金融危機の中で、市場は恐怖と混乱に包まれ、米国の大手金融機関も次々と信用不安にさらされていました。そんな中、ウォーレン・バフェットはゴールドマン・サックス(GS)とバンク・オブ・アメリカ(BAC)に対して、果断な出資を行います。 ゴールドマン・サックスに対しては、50億ドル分の優先株を購入し、10%という高い配当利回りを受け取ると同時に、将来の普通株に転換できるワラントも取得。バンク・オブ・アメリカにも同様に、金融市場が極度に悲観的になっていた時期に出資を実行しました。 この投資は単なるリターン狙いにとどまらず、市場に『バフェットが支援する=信頼できる』という安心感を与えたことで、他の投資家や政府の信頼回復にもつながりました。後に株価が回復すると、これらの出資はバークシャーに数十億ドル規模の利益をもたらすことになります。 この一連の判断は、バフェットの『他人が恐れているときに貪欲に』という名言を体現し、危機時こそ投資家の胆力が試されることを世界に示しました。
“Be fearful when others are greedy, and greedy when others are fearful.”
2016年 - アップル株の購入開始
2016年、ウォーレン・バフェット率いるバークシャー・ハサウェイは、テクノロジー企業の雄・アップル(Apple)の株式を初めて取得しました。これは、それまでIT企業への投資をほとんど行ってこなかったバフェットにとって、戦略的な転換を意味する大きな一歩でした。 バフェットは過去に『自分が理解できないものには投資しない』という姿勢を貫き、テクノロジー分野への参入には慎重でしたが、アップルについては“単なるテック企業ではなく、ブランド力とエコシステムに支えられた消費者製品企業”と見なし、長期保有に適したビジネスモデルを評価しました。 特にiPhoneによる継続的な収益、ユーザーの忠誠心、グローバルな展開力、そして安定したキャッシュフローと自社株買いによる株主還元に注目。これらを総合して『極めて合理的なビジネス』と判断したのです。 その後、バークシャーはアップル株を積極的に買い増し、保有比率を高めていきました。2020年代にはアップルはバークシャーのポートフォリオの中核となり、巨額の含み益と配当をもたらす“最も成功した投資の一つ”となりました。
“Apple is probably the best business I know in the world.”